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2017.4.12
2017.4.12

子供の「好き」を未来の糧にする大学入試改革のこと

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2020年から大学入試改革が行われて、我が国で子供を大学に行かせようとすると、私たちが経験したのとはずいぶん違う受験戦争というものが発生しそうです。

受験戦争が変わっていく

細かくは皆さん検索していただければモノの資料は山ほど出てくるとは思うんですけど、団塊ジュニアのベビーブーマーである私の経験した中学受験というのは記憶力万歳の時代でした。もうね、ブルドーザーのように覚えるのが大正義でしたね。ひたすら漢字覚えてひたすら各地の名産覚えてひたすら年代と起きたこと覚えてひたすら化学記号覚えたものです。上位になっても点が詰まっているので、一個でも落とすと順位が激烈に下がって死というのが私にとっての受験戦争でしたから、ああいう一発勝負のモノ覚えが学力とされていた時代が変わってしまうのかと思うと、ホッとするやらそんなの試験じゃねえと反発するやら。かといって、ああいう激烈な世界に我が子たちを放り込んでそれが教育なのかと自問自答するわけでありますよ。
受験で培ったブルドーザー的知能と、持って生まれた気質もあって、立派なブルドーザー的オタクになったのが私です。覚えているということは、頭の中で参照できる知識の量が多いことなのだから、知的生産社会になっても決して無駄ではないんでしょう。
と申しますのも、私が社会に出て気づいたことは、もちろん学歴も大事だけどそれ以外のことが占める割合の多さであります。これにはやっぱり受験勝者と悦に入っている場合じゃないぐらい驚くわけでありまして、いわゆる社会で役に立つ勉強と、受験で勝ち残るための学力との差異はやっぱりあるよなあと感じるのが一面としてあります。
その反面、私の身の回りで手に職を持っている医師を見ていると基礎的な学力が高い人ほどやはりちゃんと物事を見る力を養えているのだなと感心するわけです。世の中を見るときに、一定の枠組みで物事を理解し、評価し、判断にたる情報にしていく力が、学力の高い人はそれなりにあるのだと知ると、やはり私自身も私の子供たちもそういう力を持てるよう努力しなければならないし、教育したほうが本人のためになるだろうと感じるわけであります。医師資格の国家試験なんて、詰め込みが大正義以外の何物でもありませんからね。

これから評価される能力とは?

そんな役立つ能力と受験戦争という葛藤は親としてあるわけなんですが、拙宅山本家の7歳6歳3歳の三兄弟はまったくそのようなことを気にすることなく日々を楽しく暮らしています。せっかく掃除した直後に床にこぼされるチョコレートアイス、兄弟喧嘩で飛び交うブロック、夕食を食べ始めるとしたくなるうんこ、あり得ない時間に平気で勝手に敢行される昼寝、出かけるぞと言っているのに自分から一向に着替える気配のない子供たちの自由な姿を見ておりますと、こういう子供のときぐらい枠にはめずにしたいことをしたいだけやらせてやりたい、あまり強制したくないなと感じるわけであります。
そういう思いでつらつらと「『大学入学希望者学力評価テスト(仮称)』で評価すべき能力と記述式問題イメージ例」なんて書類を見ていると、大学が評価しようとしている具体的な能力の概要が列記されているわけなんですけど、これっていままでの受験戦争ではむしろ積極的に犠牲にしようとしていた項目ばかりなんですよね。

「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」で評価すべき能力と記述式問題イメージ例
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/033/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/12/22/1365554_06_1.pdf

例えば「1,400字程度の新聞記事を、一定の目的に添って読み取り、得られた情報を取捨選択したり、自分の考えを統合したりしながら、新たな考えにまとめ、200~300字で表現する問題」とかやりますよっていわれたとして、従来の詰め込み型の教育で伸ばせる能力とはまったく違うじゃんということまでは分かる。ということは、いろんな物事に興味を持たせながら、それに対して自分の意見をまとめて整理する能力と、それをきちんと論述して相手に理解してもらえるように伝える能力とが大事だよね、みたいな話になります。家庭で親との会話や、同じぐらいの知識レベルや趣味趣向の友達とどれだけ話を深められるのかという日ごろの積み重ねが超問われるわけじゃないですか。
何ていうか、それってヤバいんじゃね。子供のころから自分自身の研鑽だけじゃなくて、同じレベルの子供たちがいる環境を作って、切磋琢磨しないと「自分の考えを統合して新たな考えにして伝える能力」なんか絶対つかないじゃないですか。マジでヤバい。
また、具体的な幼少期教育から初等教育においても、アクティブラーニングとかいう参加型授業が主体となって、英語教育やプログラミング教育が盛り込まれてて「マジかよ」と思うわけです。というか、小学校のころ授業内容に反応して喋ってたら静かにしろと言われ、下手をすると廊下に立たされていた私なんかは生まれてくるのが30年早かったということなんでしょうか。プログラミングなんて誰も教えてくれなかったから親父にパソコン買ってもらってマイコンBASICマガジンで独学したり、ゲーム改造したくてマシン語覚えたりしてたもんね。
好きだと言われなくても覚えるんですよ。当たり前のことですけど。

なんて恵まれているんだ、今の子供たちは。本当にこの方向で教育全体の流れが決まるのならば、マジでオタク全盛期がやってくるわけですよ。ブルドーザー型オタクの時代がついに来た。自分の人生を賭けられる好きなものを見つけて、その好きなものに打ち込んで、学問のレベルにまで昇華させられる最低限の能力と環境があればきちんと評価してもらえるなんて。
問題解決能力を養うと言われれば凄そうに感じるけど、実際に子供の力というのはもっともっと前に奥に広がってる感じがするんですよ。子供が子供らしく興味を持ったことに取り組める環境があればまずは良いのではないかと思うわけです。疑問に思ったら質問する、納得いかなければ自分で試してみる、ということを促して、できたら褒めてあげたりすれば、そのまま突き進んでいってくれるんじゃないのか。

こどもの可能性はどこまでも広がっている

拙宅長男も次男も字が読めるようになって、各段に図鑑を読んだり、図鑑で見た知識を使ってを絵を描くことが増えました。最初は稚拙だったとしても、取り組んでいることを評価してあげたり、一緒に物事を考えたり、場合によっては博物館にいって実物、本物を見せてあげたりすることで、広げられる翼はあると思うのです。これからの時代の子供たちに幸あれと感じるのですよ、だって好きなことを実現していけばそのまま褒めてもらえる学問環境が本当に実現するのならば、プログラミングでも音楽でも昆虫採集でもその趣味が生産的で学問的である限りどこまでも許される世界がありそうじゃないですか。
そうなると、子供の教育、コントロールというのはとっても大事になってくるように思うわけです。とりわけ、何に興味を持たせるか、あるいは持たせないかってその子の将来を左右するといっても過言ではない。というのも、例えば長男が「つくば宇宙センターに行きたい」というので子供三人連れて筑波エキスプレスに乗って宇宙観光にいくじゃないですか。こっちは宇宙の図鑑持って、ネットで太陽系を調べながらわくわくで向かう途中に、似た年頃の子供を抱えた一家が戦隊モノの資料を一生懸命見ながら時間を潰している。もちろん、好きなコンテンツに熱心になるのは悪いことじゃないですよ。でも、子供の教育と将来の生産性を考えたら、戦隊モノやアニメに時間を費やすことが子供の将来に良い影響を与えるんだろうか、と悩んでしまうわけです。目の肥えた良い消費者になることはあっても、そういう戦隊ものを参考にできるようなコンテンツ制作者にならない限り子供のころから培った目利きの能力が社会で役に立つ能力になるはずもない。
拙宅山本家だって、親が仕事で忙しいとiPad渡して好きな動画を見せてるときがあって、そうなると三人でドラえもん観てたりします。長男も次男も一時期は妖怪ウォッチにハマって、メダル集めてました。そういうものも好きで良い。ただ、未来に対して生産的になるであろう興味関心と、単に子供の消費者として時間をつぶすだけの代物とのバランスをどうとるのがいいのか、凄く、凄く悩みます。喉のところまで、そんなもの観てないで算数でもやれといいたくなる、それをグッと堪えて「ねえ、ドラえもんの映画はどうだったの」とにこやかに訊いたりします。次男が「タイムマシンを作れるようになりたい」と言われたら、すかさず地球の歴史は38億年あってね、みたいな話に振りながら三兄弟が「宇宙って神秘的だね、凄いね」って言い出す流れにもっていくという涙ぐましい努力が必要なんですよ。

ああ、やはり子供の教育というのは子供に対する親の忍耐を鍛える訓練のようなものなのだ。子供が悪いわけではない、親が堪忍し、頑張らなければならないのだ。そのように毎日思いながら、自分も両親から「宇宙人だ、うちの子は」と嘆かれながら好きなことに邁進していまがあることに思い至るわけであります。私の親、ずいぶん私のために我慢したのだな。おかげで立派なブルドーザー型オタクに育ったわけですけど、我が子もそのまままっすぐ好きを極めるオタクになっていくんだろうなと思うと、じっと我が手を見る毎日です。

山本一郎