「儲かるか、社会のためか」―その二項対立を超えて
2025年9月、慶應義塾大学イノベーション推進本部が新たな教育プログラム「慶應義塾イノベサロン・ラボ」を始動させた。このプログラムを運営しているのが、渡邊直之特任講師だ(肩書きは取材時点の2025年11月のもの)。
「よくある『儲かるか社会のためか』という二項対立の議論が、イノベーションを停滞させている最大の要因だと思います」
渡邊氏のこの確信は、外務省や民間企業で、国際協力や社会課題解決の現場に長く関わってきた経験を通じて培われたものだ。
渡邊氏には7歳の息子がいる。子どもに自分の仕事を説明する時の言葉が印象的だ。
「お父さんの仕事は、社会を良くしたいと思った人たちが全力で働ける社会を作るお手伝いをしているよ」
この言葉には、次世代により良い未来を残したいという親としての思いと、社会変革への情熱が込められている。SDGsネイティブ世代と呼ばれる若い世代にとって、経済的リターンと社会的リターンの両立は当たり前の価値観になりつつある。渡邊氏は、「気品の泉源、智徳の模範・・・以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」という目的を掲げる慶應義塾の様々な挑戦者と協働し、この価値観の変化を日本のイノベーション・エコシステムに実装しようとしている。
「慶應義塾イノベサロン・ラボ」シリーズは、インパクト思考を活用して研究開発型スタートアップと共にイノベーションを共創することを目的に立ち上げられた。このプログラムは、日本学術振興会の「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)」の一環として実施されている。
プログラムの革新性は、インパクトマネジメントを「特別な活動」ではなく、イノベーションマネジメントの一部として位置づけた点にある。
「特に新しいテクノロジーでこれまで解決できなかった課題を解決する限りにおいて、社会に与える正のインパクトと経済的リターンは両立可能です」
現在、J-PEAKSによる資金も得て、金融機関を中心とした参加者が集まっている。しかし、渡邊氏は現実的な課題も認識している。
「『新しい投資のチェックポイントが増えただけなんじゃないか』という懐疑的な声もあります。でも、パイロットプログラムを通じて、インパクトマネジメントが実際にイノベーション創出に貢献できることを実証していきたい」
CFA UKのインパクト投資専門資格「Certificate in Impact Investing」を保有し、日本パブリックリレーションズ協会(PRSJ)認定のPRプランナーでもある渡邊氏は、理論と実践の両面からこの挑戦に取り組んでいる。2024年12月には、日本評価学会第25回全国大会で「研究開発型スタートアップへのインパクト投資の可能性と課題」について発表した。
一方、山形県鶴岡市では、2001年から壮大な実験が続いている。慶應義塾大学先端生命科学研究所が展開する、研究・教育・産業創出を一体化させた独自モデルだ。
現所長の荒川和晴氏は、福澤諭吉の言葉を引用しながら研究所の理念を語る。
「『半学半教』で『異端妄説の譏を恐るることなく』取り組むことが、真の革新への近道です。豊かな発想は喧騒や競争の中では育みにくい。温泉もビーチもスキー場もすぐ近くにある鶴岡市は三件の日本遺産を有し、ユネスコ食文化創造都市でもあります。豊かな自然と文化を持つ鶴岡でこそ取り組めるサイエンスを展開していきます。」
荒川氏は、現在の教育システムへの危機感を隠さない。
「ChatGPTができたことで、答えがある問題に素早く答えを返すことの価値は0になりました。受験勉強はまさにそれじゃないですか。答えがある問題に早く答えを返すことが求められている。それに時間を使うのがいかにもったいないか」
福澤諭吉が区別した「学問」と「学習」の違い。高校までは答えがある問題を学習する場所、大学は学問をやる場所。この本質的な違いを、鶴岡では実践している。
2025年度、鶴岡中央高校から「高校生研究助手」として23名、酒田市を含む近隣6校から「特別研究生」として17名、計40名の高校生が研究所に通っている。研究者約20名に対して高校生40名という割合は、「ほぼ1人あたり2人見ている」状況で、「キャパシティギリギリ」だという。
それでも10数年間このプログラムを続けてきた理由がある。
「本当に息の長い話です。高校3年、大学4年、大学院5年間を経て、博士号を取得し、地元のベンチャーで働いたり、研究所でプロの研究者として働く人たちが出てきています。循環が始まったんです」
「よくある地方創生は工場を誘致して雇用を生み出すけれど、それは安い労働力を提供するシステム。持続可能ではありません。私たちは『知的産業を0から作る』ことを目指してきました」
25年前、鶴岡市と山形県を中心とする地域からの要請で始まったプロジェクトは、「そこにしかない産業をゼロから作りあげ、さらにそこで最も活躍できる人材も育成する」という理想を追求してきた。
鶴岡の成功要因の一つは、その規模感にある。
「鶴岡の主要な有力者は100人くらい。みんな顔と名前が思い浮かびます。市長ともLINEでつながっていて、地元の商工会議所の会頭とも普段から飲み会をしている」
東京のような大都市では窓口になりがちな中間層を介さず、トップダウンで物事が進む。この機動力が、驚異的なスピードでの意思決定と実行を可能にしている。
「東京や川崎では、まず窓口の人に話をしに行って、課長に情報が伝わり、といった伝言ゲームで情報が薄まる。だけど僕らは直接トップの人に、顔見知りだから話ができる」
鶴岡へは東京から通えない。移住が必須条件だ。
「覚悟を決めた人しか鶴岡には来ない。だから熱量が高い。周りを見渡せば本気でやっている人たちしかいない。『あいつめっちゃ頑張ってるから俺も頑張らなきゃ』という環境がイノベーションには必要なんです」
研究所の20数名の研究者のほとんどが何らかのベンチャーに関わり、2ラウンド目の起業も始まっている。
成功の一方で、新たな課題も浮上している。ベンチャー企業で働く外国人の割合は3割を超え、今後さらに増加が見込まれる。しかし、地元には国際バカロレア(IB)やAPなどの国際教育プログラムがない。
「外国人研究者の子どもたちが、アメリカやヨーロッパの大学に進学できる資格を地元で取得できない。結果的に、残念ながら子どもたちを東京の学校に送らざるを得ない」
人口減少が進む日本において、優秀な外国人材の受け入れは不可欠だ。しかし、その家族の教育環境整備が追いついていない。
「東北地方に少なくとも1つは、IBコースを持つ学校が必要です。新しい学校を作るのではなく、既存の学校にIBコースを追加する現実的な方法も検討しています」
この課題は、鶴岡だけの問題ではない。日本各地で進む研究開発拠点の国際化に伴い、同様の課題が顕在化している。地方創生と国際化、そして次世代の教育をどう両立させるか。鶴岡の挑戦は、日本全体への問いかけでもある。
2023年12月、慶應義塾大学は「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業(J-PEAKS)」に採択された。5年間で最大55億円の支援を受け、沖縄科学技術大学院大学(OIST)、キングス・カレッジ・ロンドン、ケルン大学、延世大学校、ノースウェスタン大学等と連携して事業を展開する。
J-PEAKSは、地域の中核大学や研究の特定分野に強みを持つ大学が、それぞれの特色を活かしながら研究力強化を図るアプローチだ。慶應義塾大学では、「未来のコモンセンスをつくる研究大学」というビジョンの下、研究成果を社会実装につなげる様々な取り組みが行われている。イノベーションを担う人材育成の取り組みは、その主要な取り組みの一つとなっている。
イノベーション推進本部が立ち上げた「慶應義塾イノベサロン・ラボ」と、鶴岡で25年続く研究所の取り組み。一見すると別々のプロジェクトに見えるが、根底には共通の思想がある。
「科学や研究は未来を作る仕事。彼らが次の未来を作っていくわけですが、僕らに今の段階でできることは、いかに恥ずかしくない未来を彼らに託せるか」
この言葉が象徴するように、慶應義塾大学の取り組みは、大学が単なる教育・研究機関を超えて、「未来を作る仕組み」として機能することを目指している。
現代社会は多くの課題に直面している。戦争、人口減少、AI時代の労働問題、地球環境の危機。これらの課題に対して、鶴岡という一地方都市から、そして慶應義塾大学という一つの大学から、解決の糸口を示そうとする挑戦が続いている。
「せめてそういうものが一都市として、地方都市として解決できる状況を僕は鶴岡では作りたい」
渡邊氏が注目する「インパクトマネジメント」は、社会課題解決と経済的価値創造の二兎を追う試みだ。これは、次世代が当たり前に持つ価値観を、現在のビジネスと投資の仕組みに実装する挑戦でもある。
「SDGsネイティブ世代にとって、経済的リターンと社会的リターンの両立は当たり前です。この価値観の変化を、日本のイノベーションの力に変えていきたい」
鶴岡の高校生研究プログラムは、受験勉強一辺倒の教育から、「問題を発見し、解決を試みる」探究型の学びへのパラダイムシフトを示している。慶應SFCが日本で初めて導入したAO入試の理念が、地方都市で花開いている。
「高校までは答えがある問題を学習する場所、大学は学問をやる場所。この違いを理解し、継続的に自分の興味があることに取り組む。そういう若者が増えれば、日本の未来は変わります」
2025年、慶應義塾大学の2つの拠点で、「未来を作る仕組み」が本格的に動き出している。三田キャンパスのイノベーション推進本部では、インパクト投資の新たな可能性を探る「慶應義塾イノベサロン・ラボ」が始動。山形県鶴岡市の先端生命科学研究所では、25年の蓄積を基に、地元の若者たちが世界レベルの研究に挑戦している。
渡邊氏の「社会を良くしたい人たちが全力で働ける社会を作る」という思い。荒川所長の「恥ずかしくない未来を託す」という覚悟。そして、鶴岡で研究に打ち込む高校生たちの情熱。
これらが交差する場所に、日本の新しい未来が芽生えようとしている。それは、トレードオフからトレードオンへ、受験勉強から探究学習へ、そして中央集権から地方の自律へという、大きなパラダイムシフトの始まりかもしれない。
子どもたちの未来のために、今、大人ができること。慶應義塾大学の挑戦は、その一つの答えを示している。
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