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2017.8.9
2017.8.9

「ゲーム禁止令」は寂しいので、考え直してみてほしい

「はあ、またゲームやってる・・・。外で遊んだり、本を読んだりしてほしいんだけどなあ・・・」

子どもがゲームで遊ぶことをどう扱うか。
意見の分かれそうな問題です。
ただでさえ悩みがちなこの問いは、プログラミング教育について考えると、さらに避けては通れない雰囲気を増します。「プログラミングは学んでほしい。そうすると電子機器に触れる機会が増える。でも、ゲームはあまりしないでほしい」
こういった悩みはなんとなく理解できるのですが、「だから、ゲームを禁止します」という話には、どうしても首をひねってしまいます。
今回は、「ゲーム禁止令」について考えてみます。

「ゲームは悪影響」派は、やはり多い

世の中の人は、ゲームをどのように捉えているのでしょうか。
ゲームを制限するかどうかは別として、その影響についての考えを見てみます。
下のグラフの赤っぽい部分が、ゲームの影響をポジティブに捉えている人、青っぽいのがネガティブに捉えている人です。

データ元:ゲームと子どもに関するアンケート(株式会社マーシュ)

世の中には、ゲームが子どもに与える影響をネガティブに捉えている人の方が多いようです。
あまり意外性はありませんね。
やはり、「ゲームは子どもに悪影響」というイメージはある程度、社会に浸透しているものと考えても良さそうです。このイメージは、ゲーム禁止令に繋がってしまうこともあるかもしれません。
でも、ゲームは本当に、そんなに悪い影響が大きいものなのでしょうか。

一般的なイメージほど、ゲームは悪者ではない説

ゲームの影響についてはたくさん考察されていて、割と好影響についての情報が多く見つかりました。(例えばこれ
よく考えてみたら、一般的なイメージほど、ゲームは悪者ではないのかしれません。
他の記事で言及されていなさそうで、プログラミング教育と関係ありそうな話があるので、それだけ書いておきます。
プログラミング技術を習得した人の多くが、ゲームを作ることから始めていると思います。


もちろん、これだけで「ゲームは正義だ」なんて言うことはできません。
しかし、私たちがプログラミング技術の恩恵を、四方八方から享受しながら生活しているのは事実です。
そう考えると、「プログラミング技術習得のモチベーション」というゲームの社会的役割は、馬鹿にできないものかもしれません。

これはただ、「禁止は寂しいから、考え直そう」というだけの主張

さて、ここでお伝えしたいのは、決して「ゲームは悪者じゃないぞ! ゲーム最高!」みたいな話ではありません。
(私は特にゲームが好きではありません)
ですが、「ゲーム禁止令」は寂しいものなので、考え直してもらえたら嬉しいとは思います。
ここからは、その寂しさを書いてみます。

寂しいポイント1. 多くの場合、禁止令の根拠はふわっとしている

例えば、「ゲームは禁止すべき」という主張の根拠として、「ゲームは子どもを暴力的にしてしまう」という考えがあったとします。
そういった根拠は、多くの場合、ふわっとしていると思います。

根拠の正体は、あくまで傾向
当然ですが、子どもが暴力的になるかどうかなんて、時間が経ってみないと分かりません。
「昔ゲームばかりしていた穏やかな大人」もたくさんいるでしょうし、むしろ、ゲームの影響で創造的になる人もいます。
もちろん好影響についても同じことが言えますが、ゲームの好影響も悪影響も、その正体のほとんどは「○○ になりやすい」という傾向です。
傾向というものには「強さ」があり、それはとても重要です。
例えば、「ゲームをしていた人の0.1%は暴力的になる」と、「ゲームをしていた人の50%は暴力的になる」では、「ゲーム禁止すべきか」の結論に違いが出ます。
しかし、ゲーム禁止令の根拠が、そのような具体的な数値を伴っていることは極めて稀だと思います。
(「数値的な根拠を持て」という話ではなく、「禁止するのであれば、しっかり考えた上での結論であってほしい」と思って書いています。)

良いか悪いかを決めるのは主観
「それでも暴力的になる危険性があるなら、禁止した方がいいじゃないか」という反論があるかもしれません。
ですが、悪影響の情報と同様に、「子どもが創造的になる危険性が高い」といったポジティブな主張もあります。
そこで私たちは、「暴力的になる、等の危険性」と「創造的になる、等の可能性」の大小を比較し、結論を出します(無意識下であれ)。
ここで重要なのは、「どちらが大きいか」というのは、主観的なものであるということです。
暴力的という言葉に敏感に反応する人もいれば、創造的であることが人生の全てである人もいるので、結論は人によって変わります。

しかし、自由が奪われることは確実
根拠はとても不確実で主観的ですが、ゲーム禁止令が子どもから自由を奪うことは客観的事実と呼んでも良い気がします。
ゲーム禁止令を親が口にしたその瞬間、子どもは「いつでも好きなゲームができる」という自由を失います。
「だからどうした」と言われてしまったらそれまでですが、個人的には、子どもが好きなことができないのは寂しいし、
その自由を奪うのであれば、それに値するだけの強い根拠があるべきだと思います。
「よく考えた訳じゃないけど、たぶんゲームは悪だろう」というレベルのふわっとした根拠で自由を奪ってしまうのは、寂しいことだと感じます。

寂しいポイント2. 禁止よりも美しい解決策がある

もし、ゲームの悪影響を確信していて、「子どもがゲームに触れない状態」を作りたいとしても、禁止令よりも美しいアプローチがあると思います。

禁止という解決策には、たくさんの負の影響を生みます。
・好きなものが制限されることのストレス
・制限を設けた親への反抗心
・家庭内の窮屈な雰囲気

一方、これらの負の影響を生じず、かつ、親の希望も通るケースもあります。
「禁止したから、ゲームをしなくなった」ではなく、「ゲームよりもずっと面白い何かに気付き、ゲームに見向きもしなくなった」というパターンです。
この素晴らしいアプローチに欠点があるとすれば、意図的にその状況を作るのが、もうそれはそれはびっくりするくらいに難しいということです。

これらを踏まえると、親が選びうる選択肢は3つあります。
1. 難しいけど、美しいアプローチでゲームを遠ざけるようにがんばる。
2. 難しいから、負の影響に目をつむり、強引に禁止令を公布する。
3. ゲームを許容する。

2番目は、寂しい気がします。

途中にも書きましたが、これは「みんな、ゲームをさせよう!」という主張ではなく、あくまで「禁止は寂しいので、考え直してみませんか」という提案です。
こんな独身アプリ開発オタク野郎(しかもスケベ)の考える教育論が、机上の空論に過ぎないことなど、重々承知でございます。
それでも、何かの間違いで誰かしらが考えを改め、子どもが好きなことをする自由につながれば素晴らしいと思い、駄文を書き連ねた次第です。

戸田大介