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2017.10.25
2017.10.25

親の視点で考えるプログラミング教育

2020年に小学校でのプログラミング教育必修化の流れにのり、先だってプログラミングを教える塾などが非常に増えてきているようです。文部科学省の指導要綱にもプログラミングの文字が入ってきて、これから先避けては通れないテーマである事は確かなようす。
しかし、プログラミング教育はどこを目指しているのか?指導要綱を見ても、関わっている人に聞いてもイマイチ掴めない。という声を頂き、今回プログラミング教育について考えてみる事にしました。

どのような教育についてもいえるのですが、教育について考える上でまずは立ち位置を明確にしておきたいと思います。
今回は、親の立場として考察する事にします。筆者は事業でもプログラミング教育や学習そして教材の提供など行っていますが、娘のいる親の立場でもありますので、その視点から今回は考えて行きます。
また、親の視点と一口に言っても、親御さんの教育方針などがどの方向を向いているのかによっては様々な見解が分かれる所でもありますので、大前提にここで考えたいのは、親として子供にプログラミング教育をさせたい理由としてもっともシンプルな答えの一つ、「将来子供が生活していける最低限の能力は得て欲しい!」という面から考えていきたいと思います。たぶんこのテーマは、おそらくどの親御さんも異論がないのではないでしょうか。

さて、将来生活していける最低限の能力とは所属している社会によってまた様々あります。わかり易くする為にあえて突拍子もない例をとるならば、現在社会においても、狩猟民族は存在し、小さな部族の中で暮らしているグループにおいて、そのグループ内にいる限りにおいてはおそらく、プログラミングができる能力は必要としない。また、文章の読み書きですらもしかしたら必要としないかもしれません。

まさしく、口語の社会です。私たちの暮らす日本も大昔は口語の時代があり、その時代においては「読み・書き」は一般市民はなくとも社会が成り立っていた時代でした。
この「読み・書き」は「識字率」として教育の重要な指標として調査されており、その資料を見ると、1820年頃は、世界の人口のわずか12%が「文字の読み書き」ができなかった時代というのがわかります。
1820年頃の文字の読み書きはいわゆる一般的な技能ではなく、専門家に必要な高度な技術という位置づけにあったわけです。


しかし、上のグラフを見るに識字率は2世紀をかけて普及して、現在では、識字率のシェアは逆転しています。
今では、「読み・書き」ができなくても将来困らないなんて事を言う人はいないでしょう。それと同様に、子供の将来所属する社会ではプログラミング能力は専門職ではなく、一般的に有して利用するものになっている社会である可能性が非常に高いのです。

そこで、一般的にプログラミングを有する社会とはどんな社会なのか?遠い未来を考えるのは難しいですが、今の延長線上で考えてみます。
例えば、将来お子さんが研究者になった時に、その研究データを解析する上でコンピュータに作業をさせた方が圧倒的に早く解析する事が可能となります。また、事務職になった場合においても、単純な流れ作業などの企業に特化した小さなタスクが在ったとします。通常そんな小さなタスクをこなすように完全にマッチしたコンピュータのソリューションは存在しません。しかし、人工的に行うと1週間かかる仕事量だったとします。
このような場合でも、プログラミングができる事で、2日プログラムして数分で仕事を完了という事ができるようになります。

そして、このような能力を有する事がプログラミングを学ぶ事でできるようになり、仕事量に圧倒的な差がでてきます。
すると、企業として雇用したい人材は能力を有する人材と有しない人材であれば有する方を優先するのは当たり前となってきます。

プログラミング能力を有する人が普及した社会において、プログラミングができない人は、現代社会における「識字」ができない事と同じような立場になるのではないでしょうか?
そう考えると、子供にプログラミングを教える事は「読み・書き・算盤」と同じくらいの最低限の「識字」の一部なのかもしれません。

中尾瑛佑